Les mains du miracle=奇跡の指を持つ男
新潮社刊奇跡の指を持つ男品田一良先生訳より抜粋。
文中では私が敬意を表してケルステン師と記載している。

1898年9月フェリクス・ケルステン師は生れた。
 学校の成績が良くないことを父が許さず、7歳で百キロも離れた寄宿学校に入れてしまった。五年間をここで過ご
し、バルト海沿岸の大都市リガで苦労の末中等教育を終えている。
  1914年の始めに父親は彼をドイツに送り、シュレスウィッヒ・ホルシュタインにある有名な農学校ゲーネフェルトに
入学させた。
 ここで特筆すべきはケルステン師の母がその母から学び取ったという手技で神経痛やリュウマチ骨折を治すことで
此の地方の間に知れ渡った人だったことだろう。

それから半年後に第一次世界大戦が勃発した。
二年後には農業技師の免状を手にしている。1917年には兵役に服すことになる。
1919年すでにフィンランドの将校になっていた彼は生まれ故郷のユーリエフ(解放後はドルバット)で両親と再会で
きた。父は新たに誕生したエストニア政府の農業政策を甘んじて受け入れていた。
フェリクス・ケルステイン師は沼地の中での越冬でリューマチに罹り、松葉杖にすがることになり、ヘルシンキの陸軍
病院へ行く羽目になってしまった。

その入院生活中に軍隊に戻るよりは外科医にでもなろうと思い立ち、軍医長のエッケマン少佐に相談した。
少佐は外科医になって食べてゆけるまでに相当難しい勉強と時間が必要だから、科学的マッサージをやってみるか
ねと、フェリクス・ケルステイン師の手首を握りながら話した。
少佐は彼の手を握り、この手は外科医には向かないんだと肉付きの良い手をさして言った。
この手はマッサージには申し分がないんだ。

母のことを少佐に話すと、それは先祖伝来の特技じゃないか。
そう言うと、松葉杖を持たせて総合診療所につれてゆき、傷病兵の治療に当たっていた所属のマッサージ師達から
教育を受けさせたのだった。
一ヶ月後には兵達がケルステン師の方を求める様になり、快復する姿にえもいわれぬ喜びを感じるのであった。
北国の特にフィンランドのそれは、非常に古くから伝えられたもので、深遠な技術であった。
 当時最もその道で尊敬されていたコランデル博士が重症患者の治療に陸軍病院にやってきて、ケルステン師の非
凡な才能を見抜くと、彼を弟子にしたのだった。
それから2年間講義や臨床ばかりでなく、生活のためにレストランの給仕や皿洗いや沖中仕までして働いた。
1921年マッサージ師の資格を取ると、コランデル博士はドイツで勉強を続けるように勧めた。
あてもないまま彼はベルリンに着いた。
そこで生涯の援助者エリザべート・ルーべに出会う。姉であり母である立場が二人の間に貫かれていった。1922年
の事であった。

ベルリンで外科医の教授であったビエール教授は当時でもあまり正当な医学とは認められていなかった、
類似療法、鍼灸、特にマッサージに力を入れて丹念な調査を行っていた。
教授は学生の中にフィンランドのマッサージの奥義を極めた学生がいることを知ると、特別に親しくしてくれて、夕食
に招いてくれた。
ためになる人物を紹介しようと言ってくれた。

大きな部屋に通されると、教授の隣に小柄のシナ人の老人がいるのに気がついた。

並々ならぬ尊敬のこもった声で
こちらがコー先生ですよ
と紹介されて驚きを持って受け止めたのだった。
にこやかで終始笑みだけだったコー先生が単調に自分のことを語り出した。

生まれはシナだが、育ちはチベットの北東にある僧院で、子供の頃すでに最高の知恵に関する言い伝えや教え、
ラマ教治療師が古くから伝えてきたチベットの治療術に通じていたこと。
特に精通したのは太古から伝わるマッサージの微妙な術であった。その修行に20年を費やしたある日、僧院長か
ら、もはやここで学ぶことは無くなった、金は出すから西洋に行って勉強してくるがいいと、言い渡された。
英国に渡り医大に入り、医師の免状を取得して、ロンドンで開業したのだった。

コー先生は言われた
私はチベットの僧院で学んだ通りのマッサージで自分の患者を治してきたが、別に得意に思ったことはない。
ラマ教徒は入信の時、全ての虚栄心を捨てるものだからだ。

ビエール教授が手紙を書きベルリンに招いたのだった。
君のことをコー先生に話したら、先生が会いたいとおっしゃってね。

席を立つとコー先生がケルステン師を帰り道にあった自宅に招き入れた。
いきなりコー先生は服を脱いで横になり、
君のフィンランドの技術を私に見せてくださらんか

自分自身に満足する程の熱中で施術を終えると、コー先生は言った。
あんたは、まだなにも知りませんな。なにも。
さらに続けた
だが、まさしくあんたこそ私が30年来求めていた人なのだ。
私がまだチベットで修行者だった頃、占星術に30年後に一人の若い男に出会うが、
その男に自分の持っている全てを与えねばならない、と出たのだ。
今日から、あんたは私の弟子になりなさい。 1922年の事だった。

新聞にはアドルフ・ヒットラーの名が出始め、もっとも激しい妄信者に
ハインリッヒ・ヒムラーという教師の名もあった。

三年の間コー先生について学んでいたが1925年秋のある朝、コー先生の家に着くやいなや、穏やかに切り出され
た。
私はあした、僧院に向けて発つ。そろそろ死の準備をしなければならないのだ。
あと八年しか、私は寿命がないのだよ。

どうしてわかるんですか

こればかりは絶対間違いないのじゃ。その日にちさえも、私の占星にははっきり出ているんだよ。

これからは、私がしてきたことを、あんたが続けるがいい。私の患者をあんたが診るのだ。

翌日コー先生はルアーブルヘ行く汽車に乗り、シンガポールまではそこから船で、そしてチベットに戻ったのだった。


突然ケルステン師は経済的に恵まれ、多くのコー先生の患者を引き受け、その名声はドイツ以外にも広まっていっ
た。
1928年。
オランダのウイルヘルム・ルミナ女王がケルステン師をハーグに招き、夫君ヘンリー殿下の診察を頼んだ。6ヶ月持
たないと言う衰弱状態を全快させたことで、休廷でも名をあげたのだった。
そしてオランダに住むことを決断し、ドイツは診療のために残し、正式の住所をハーグに持つことになった。

1931年ヒットラーは強力な党を作り上げ、党首になっていた。ヒムラーは党首の護衛と殺人が専門のSSを指揮して
いた。ヒステリックにヨーロッパの指導者になると叫ぶヒットラーだった。

ケルステン師は1937年4月イムルガット・ノイシャフェルという娘と結婚をする。

1938年の終わり、過大な治療費を払ってくれたことがあったオーグスト・ディーン氏がベルリンに来ていたケルステ
ン師を訪ねた。

私ではないのです。
先生ヒムラーを診察してくださいませんか?

ハインリッヒ・ヒムラーと聞いて、そう言った人々との関係を持ちたくないと断ったのです。

先生のお仕事は、人間の苦痛を、わけへだてなく取り除いてやることではないでしょうか?

ため息混じりに引き受けてしまった。

忘れたいような事柄のあった数ヶ月後、1939年三月の最初の週に、ドイツからハーグに電話が入った。

1939年三月十日
ヒムラーの司令部を訪れた。

おいでいただいて恐縮です。
お噂はよく伺っておりました。
と、激しい胃痛を治して欲しいと口を切った。
上半身を裸にして仰向けになったヒムラーの上にケルステン師の両手が乗っかっていった。
精神集中状態になって施術して行くと傷みがヒムラーに走り、
やっとわかりました。特に交感神経ですね。この痙攣ほど痛みがひどいものはありません。
絶えず神経を緊張させておいでだから悪化するのです。

1回目の施術が終わると、嘘のように痛みが消えていた。
夢のようですと、感嘆の声を上げたのだった。
大佐待遇でSSに加えたいとまで言い出すのだった。
やんわり断り、
でも長官が、痙攣を起こしたらすぐに来て差し上げますよ。あと二週間はベルリンにおりますから。

奇跡は毎朝繰り返された。
一時間の施術の間、ケルステン師は患者の休息と自らの休息のため話をすることにしていた。

自分は父親のような癌になってしまうのではないか、SSの長官として病であることは恥になるとまで言うのであった。
一週間後にはヒムラーはケルステン師の前で何でも思っていることを抵抗も感じないでしゃべるようになっていた。

8日目のことだった。
休息にはいると。まもなく戦争ですよ。と自信を持って語るのだった。
ケルステン師がオランダに発つ日を迎える頃には、大好きな豚肉さえ思う存分食べられるように快復していた。
感動と感謝に満ちた別れを告げたのだった。

ヒットラーはチェコを占領していた。

夏の初めにハーグに電話が入った。
ミュンヘンから40キロの美しい湖の土地、ガムント・ターガン・ゼーにヒムラーは小さな一軒家を持っていた。9歳年上
の妻と、12歳くらいの少女が一緒に住んでいた。そこに招かれ食事をともにして、施術をしたのだった。

総統は戦争をお望みだ。
そう言うヒムラーに受け答えしなくてはならなかった。

エストニアに旅行し、ベルリンに戻ると8月26日すぐにヒムラーに電話で知らせた。
ケルステン師の立場はこのように直接長官に電話できる程信用を得ていたのだった。

すぐに来てください。また痙攣がひどくて。。。

笑いながら、ポーランドを攻めるというのだった。

1939年10月1日
ヒムラーは至急ケルステン師をベルリンに呼んでくれと副官に命じた。
電話で痙攣がひどく早く来てくださいと懇願するのだった。
一週間後快復したヒムラーに、クリスマス前に戦争でドイツに戻ってこれないと告げると、
ヒムラーは叫んで言った。
クリスマスまでには全て片が付きます。総統のお言葉だからです。

ケルステン師はベルリンを離れる前に、一つの計画を実行した。
独立のために戦ったことのあるフィンランド公使館を訪れた。

施術中にはヒムラーは信じがたいほど口が軽くなり、軍や政治の機密を自分に漏らすこと等詳しく伝えた。
その後で、このままSS長官を施術してよいかどうかの迷いを打ち明けたのだった。

どうかもっと念入りに治療してやってください。そして我々に情報をもたらしてください。我々を助けてください。
一番大事なのはこの点です。
ケルステン師は出来るだけの協力を約束した。

1940年の初頭からベルリンでドイツ人の患者を診ることになっていた。
四月の終わりまで毎朝、ヒムラーの治療をし、彼と話し合った。

5月10日それまで足止めを喰わされていたが、ベルリンにすぐ来て頂きたいと電話が入った。
何も知らないケルステン師を笑ってヒムラーは得意げに話した。
オランダに突入したのです。あの純粋にゲルマンの国を資本主義のユダヤから開放できるはずです。

こうなれば私はもうここには用がありません。
フィンランドに発ちます。
ヒムラーの怒りなど畏れることもなく言い放った。
真っ直ぐフィンランド公使館へ向かったケルステン師を外交官達は、ヒムラーの治療こそが国民としての義務であり
持ち場であると説得した。

5月15日、オランダとベルギーが完全に占領された。
占領地を視察に行くヒムラーの同行を求められた。半強制ではあるが。

6月にはフランスも制圧された。
ヒムラーの側近達はケルステン師が自由にヒムラーの部屋に出入りできることを嫉妬していた。
敵意さえ見せ始めていた。

そんな中で、それに加わらない男がいた。
ヒムラーの特別秘書のルドルフ・ブラントであった。帝国議会の一等書記官であったが、腕の良い速記者というので
抜擢されて、SSの少尉となっていた。

ブラントが胃腸病を病んでいたので、ヒムラーが施術を受けることを頼んできた。列車の中で施術を受けたのだった。
狂気の逆巻く中で、ケルステン師と此のブラントだけが普通の心を持っていることが出来たのだった。
二人は密かに心を交わしあい、目配せや、話の調子で意志の疎通を図った。

8月26日のこと
ヒムラーは激しい胃痙攣を引き起こした。
かなり強い発作であったので、終わってからもヒムラーは椅子に横たわっていた。そしてこう切り出した。
もし先生がいらっしゃらなければ、私はどうなっていたでしょう。先生にたいして申し訳ないんです。
それは自分が何もお礼をしてないと言うことだった。
ケルステン師は完全に病が治らないと施術代金は受け取らないことになっていると言った。
でもどうすればご恩返しが出来るでしょうか?

ケルステン師は突然ひらめき、少し前に頼まれていた、老工場長に関するメモを取り出して。
ヒムラーに差し出した。
長官。これが私の請求書です。この男を釈放してやってください。

びっくりしたがヒムラーは
先生のご希望なら、お受けしましょう
と言って、ブラントを呼んで、その紙に書かれている男の釈放を命じた。
ブラントは、ちらっとケルステン師の方を見て良いことをしたという意味を伝えた。
このときに二人は完全に通じたのだった。
三日後ヒムラーはハーグにある家を処分して引っ越してくることを強く要求した。

 ケルステン師は彼女からの秘密の手紙の安全な受け取り場所が欲しいと、ヒムラーに願い出て、彼の私書箱を自
由に使うことを快諾された。其の私書箱である野戦郵便地区35360番に、ハーグの友人達からのゲシュタポの悪
行を知らせる手紙を送らせたのであった。そのときのドイツの中で、この番号に当てたものだけは開封してはならない
と厳命されていたのだった。

ベルリンへ発つ前の日だった。
オランダ地区ゲシュタポ司令官のオーストリア人ラウテルが友人のビグネルを逮捕しようとしているという情報がもた
らされた。
ケルステン師は到底できっこないというラウテルにヒムラーへの電話を頼んだ。
五分後には電話がかけ直されて、ベルが鳴った。そこには胃痛で苦しむヒムラーの声があった。
早くベルリンへ戻ってください。
でも友人が逮捕されようとしているので戻れません。彼は無実です。私が保証しますから助けてください。
すぐ電話をラウテルと変わるとその者の釈放を命じたのだった。
ラウテルがショックを受けたが、ケルステン師も快いショックを受けたのだった。24時間後には引っ越しの準備が出
来てベルリン行きの汽車に乗ったのであった。

ブラントはビグネルを釈放できたことをケルステン師に祝いを言った。

ヒムラーはケルステン師の両手に絶対の信頼を置いていた。
 先生は私の唯一の友であり、私の仏です。私を治療してくださるばかりか、私を真に理解してくださるたった一人の
お方です。
そしてヒムラーはブラントを呼ぶと、ケルステン師が言う名前のリストを作らせ釈放命令にサインをするのだった。
下段に余白が有るときは、ブラントはケルステン師と話し合って、数人を付け加えるのであった。

ユダヤ人を治療しているというのでゲシュタポがやってきた。フィンランド国籍と衛生顧問官の証を見せると、手が出
せなくて帰ってしまった。

ヒムラーの処に出向くと陽気な顔をして、言った。
長官。私のことを調べるのにゲシュタポを送らなくてもいいですよ。何でもご自分で率直に聞いてください。

何ですと、
真っ青になって怒ったヒムラーは電話でしかりとばした。いっさいの事は私が責任を摂るから先生の行動に干渉して
はならない。

私はユダヤ人だって、他の人間と同じなんです。
いやちがいます。
ヒットラーはこう言ってます。
 生物には人間と動物とユダヤ人の三種類がいて、前の二つが生きて行くには最後のものは滅ぼされなければなら
ないのだ。、と
突然長官の顔が引きつり、胃痙攣が始まった。
また始まりましたね
神経に障るといけないのです、あなたの病気にはとても悪いんですよ。さあお脱ぎ下さい。

一国の民を救う

1941年三月一日。
SS司令部の前で車を降りた。
早二年の歳月がここを訪れて流れていた。
来訪を告げると、三十分ぐらい待つようにと言われ将校の食堂に行き、言いつけられていた係がコーヒーとお菓子を
持ってきた。
そこにラウテルとハイトリッヒが入ってきた。ハイトリッヒのすぐ上はヒムラーである。
彼らは話しに夢中でケルステン師に気がつかず近くに座った。
ラウテルがヒステリックに言った。
オランダの豚めらが。
奴らの追放計画の指令を受けてきたから、君の処にも届くよと、ハイトリッヒが言っていた。
直ちに実行だ。期日はいつです?

それ以上は聞こえなかった。

落ち着けと自分に言い聞かせ、知らない風を振る舞って、全部食べ終わるとのんきそうに会食所を出た。そして始め
て走るようにしてブラントの部屋に行った。
しかしそこには彼はいなかったのだ。
するとこのとき、長官のからだがあきましたと告げてきた。

治療中話に身も入らないのを見てヒムラーは言った。先生は心ここにあらずという感じですね。ブラントによればオラン
ダのご婦人からかなり手紙が来ているそうですね。
ヒムラーは男が男に、牡が牡に、共犯者に対するように、ケルステン師の肩を軽く叩いた。

家に戻ると、エリザべート・ルーべさえ見間違えるほど、表情が変わっていた。

ブラントと連絡を取り、夕方6時に彼の事務所で会った。彼は治療中と言うことにして鍵をかけると、一つの書類を見
せた。
そこには、四月二十日のヒットラー総統の誕生日に贈り物として、三百万人のうち男は徒歩で向かわせる。その家族
や女子供はオランダの港からケニグスベルグの町まで運びそこから鉄道でルブリン地方に送り込むというのだった。
今日は三月一日だ。あと数週間のことだ。
宜しいですね先生。私がこの書類をお見せしたことは決して誰にもおっしゃらないでくださいね。

翌日
施術しながら聞いてみた。
正確にはいつなんです。その。オランダ人を追放するというのは。
四月二十日です。ちょうど総統の誕生日です。あのオランダ国民というのは、反抗的でいけません。
いったん反逆者になったからには目にもの見せてやります。
しばしの沈黙が流れた。

それ、どこから、どうやって知ったのです?
このときほど鋭く見つめられたことはなかった。
昨日会食所で、コーヒーとケーキをとり、治療を始められるのを待っていたんです。
すると、ハイトリッヒとラウテルが来て、そばに座りました。そして、こっちにも聞こえるくらい声高に、追放の事を話し
ているので、これは私にも大いに関係があるとおもい、あなたにお聞きしたのです。

あきれたやつらだ!
一方ではケルステン師の無実を知り満足そうな表情をしながら金切り声を上げた。
極秘事項を知ったかぶりで人前でしゃべるなんて!
彼らがこんなにも口が軽いと言うことを知って、良いことをしました。先生に感謝します。

再び自信に満ちた両手が動き始めた。
 この追放と、現在十万人のSS隊員を九十万人まで三ヶ月の間に増やすというとてつもない仕事二つを、持ちこたえ
る身体ではないと説明した。
 聞いてください素晴しい計画なんです。ポーランド人は反抗的ですから、そこにオランダ人つまりゲルマン民族の血
を流し込むのです。完璧な計画です。

あなたは、SS隊員増強と追放とどちらを重要にお考えですか?

勿論SS隊員増強です。

それなら追放の仕事は他の誰かにやらせるべきでしょう。

いやこれほど重大な任務は私以外に出来ません。私が許しません。

ヒムラーを負かしてやる。家に帰ったケルステン師はそう決心したのだった。

追放は期日通りに実行します。そう繰り返すヒムラーだった。

毎朝ヒムラーは顔を蝋のようにして苦しんだ。奇跡を呼び求める彼だった。
苦痛のために弓なりになった貧弱な身体が哀願し、救いを求めても、もはや手だては無かった。

ちゃんと申上げておいたでしょ。
長官には無理なんです。SS隊員を増やしたり、一国の民全てを追放したりという大変な仕事を同時にやるのは。
重要でない方の仕事は断念なさい。そうすればすぐよくなりこと、私が請け合います。
できません。
これは総統のご命令なのです。と泣きながらもう一度やってみてくれと哀願した。
しかし無駄たった。

総統に随行することになってたヒムラーは専用列車のベッドから離れられなかった。
傷みがひどすぎた。それでホテルに移り治療を願った。
来てください来てください。もう息もつけません。
長官私はあなたの友です。あなたをお助けしたい。だから、あのオランダの話は延期しなさい。
そうすればまた私の治療が効くようになるのですから。
ヒムラーは震える手でケルステン師の手をつかむと
そうです。その通りです。でも総統にどう言ったらいいか。私は傷みがひどくて検討もつかないんです。

 まず、あらゆる任務を一度に出来ないとおっしゃるのです。それから船の不足や、道路の混雑など、もしこれを続け
るなら、最も重要なSS隊員増強が出来なくなると。
なるほど!そのとおりです!でもどうやって総統の処に言ったらいいんでしょう。傷みで動けないのですから。
本当に決心されたのですね。
私もドイツの長官です。嘘はいいません。とヒムラーはうめいた。
こ時ほど自信を持って施術したことが無かったほど集中した。
時々信じられないという風にヒムラーがつぶやいた。
確かに・・・・痛みが・・・ええ・・・へっていきますよ。

本当によくなりました。もう痛みがありません。

 これというのも。あなたがヒットラーに話す決心をなさったからですよ。さあ急いで実行に移すのです。またいつ発作
が起こるかも知れませんから。
走って行ってきます。
彼はシャツを大急ぎで着た。と、このとき電話が鳴った。話を聞き終わると、
ユーゴー戦が終わりました。総統は私にもすぐ帰るように命令されてます。

列車の中に乗り込んだその夜。運命はケルステン師に味方した。
またもや激しい痙攣にみまわれたのだった。
ベルリンに着くまで治療を続けた
おわかりでしょう。前より長くかかりました。あなたの頭の中にまだあの計画があるんですね。
ご安心下さいケルステン先生。よくわかってますから!
彼はまっすぐ、ヒットラーの元に車を走らせた。それから二時間後の電話で。
総統は天才であるばかりか、寛大なお方です。私の疲れに同情してくださいました。追放は延期です。命令書を頂い
てきましたから今度お見せします。
ヒムラーもヒットラーもケルステン師を疑うことはなかった。
ケルステン師は疲れで休暇をと取ったのだった。

ロシア侵攻がうまく行かなくなってきた1941年6月31日からのことだった。
イギリスも反撃の準備が見られ、アメリカまで参戦の兆しだった。ヒットラーは全面戦争はしたくないのだが、イギリス
のユダヤ人が和平に反対しているのだから、ユダヤ人を全滅しなければならないという解説をした。

それで?
それで、総統は我々の力の及ぶ限りのユダヤ人を整理するよう命じられたのです。

整理するとはどういう事です?

つまり、この民族を徹底的に完全に抹殺することなんです。

馬鹿なことをしてしまったのです。嫌総統のことではありません。
総統が私にさせようとお思いになっているこの計画を説明なさったとき、私はエゴイズムから、よく考えもせずに、こう
答えてしまったのです。
「総統、私始め私のSS隊員は、総統のためのにいつでも死ぬる覚悟ができております。しかし、どうかこの任務だけ
は、私にお命じにならないで下さい」

ヒットラーはちょっとした反対にでも会おうものなら、たちまち引き起こす、例の狂ったような怒りの発作にとらわれた
のだった。
ヒットラーはヒムラーに飛びかかり、襟髪をつかむと、怒鳴りだした。

「お前が今日あるのも、すべてわしのおかげじゃないか。それがなんだ、わしに従えんというのだな。お前は裏切り者
の仲間だ」
哀願して謝ってもヒットラーは収まらなかった。

「戦争はじきに終わるんだ。そしてわしは世界に対し、戦争が終わったときには、ひとりのユダヤ人もこの地上にはい
ないだろう、とはっきり約束したんだ。強力にやらねばいかん。早急に片づけねばならん。もはやわしには、お前が其
の任務に耐えるとは考えらん・・・・・」
ヒムラーの落胆はひどいものであった。

ケルステン師はヒットラーのことを思った。
この気ちがいはたけり狂い、血の河を作りたがっている。
そしてヒムラーのことを考えた。
この気ちがいは気違いに服従し、気ちがいを喜ばすために、才能と勢力をふりしぼろうとしている。

エホバの証人
戦争が始まって三年目の1942年のころ。
エホバの証人という会はドイツに2000人の信者を持っていた。彼らは戦争反対を表明していた。ヒットラーに従うよ
り自分たちは神に従うと言っていたので、捕らえられて、特にひどい扱いを受けていた。
ケルステン師はこれを知ると、ヒムラーに頼んで数人の女性を家事手伝いとしてもらい受けた。
十人の女性達が屋敷にやってきた。
彼女たちの求めた物は、パンでも衣類でもなく一冊の聖書だった。
ケルステン師は早速それを与えたが、此の会の者が聖書を持てば即刻死刑と決まっていたので、用心のために自
分の名前を大きく表紙に書き入れた。
さらにケルステン師はヒムラーに願ってエホバの証人のグループから使用人をくれるようにヒムラーに頼んだ。
男も含まれていて30人にもふくれあがった。


1942年7月3日、
ヒムラーはケルステン師に言った。
旅支度をなさってください。ロシアに行きます。まもなく我々は出発します。
 ヒットラーの総司令部はウクライナのヴィンイニッツアにあった。ヒムラーの司令部はそこから60キロ離れた
ジトミールに置かれていた。7月5日彼は到着した。
本当なんですか?あなたの収容所では拷問して殺すというのは?
いやはや、先生も連合軍の宣伝にひっかかりましたね。

いや確かな話ですよ。ベルリンのフィンランド大使館でスエーデンに行くという二人のスイス人新聞記者に会いまし
た。
彼らは収容所の近くでSS隊員から、その写真を買ったというのです。

ヒムラーはいきなり野戦用ベッドから起きあがった。
そこにはまさかと思っていた噂が真実であることを知ったからだ。

先生はその写真をご覧になったのですか?
時が経てばわれわれの正しさが証明されるのです。
ご存じですか・なぜSS隊員があらゆる拷問を写真に記録すると言うことを、それは数千年後の人間に、真のドイツ人
は「自分たちの栄光のために、いかにしてドイツ総統の敵を、ユダヤ人という呪われた民族を、滅ぼしたかを知らせた
いからなのです。
アドルフ・ヒットラーの世紀の写真を、感嘆の念なくして見られず、そしてかれらは、総統に対し、感謝の心をいだくで
しょう。永遠に。

ケルステン師は吐き気がしてきた。これほど狂気の人間に囲まれていると言うことが。

やや、やりとりがあって、ケルステン師は口を開いた。
あなたなんですね、そう言った方法を考え出したのは?

いや、とんでもない。
ヒムラーはこの上ない忠誠心を表して叫んだ。
とんでもないです。これは総統ご自身です。総統の才能を持たねば、これほど細部まではおもいおよびません。
では拷問を命じるのは?
それを命じるのも総統なんです。
先生は総統の命令なしにおこなわれることが、なにかあるとでもお思いになっているんですか?
それに、この世に最初に生れた天才が、これこれをしろと命令なさるのに対し、どうして私などがとやくいえるでしょ
う?

先生は私が自分の手で人を痛めつけられないことは、よくご存じでしょう
ヒットラーは金文字入りの自分の名前が入った紙に、全てはヒムラーに責任はないという内容に署名して渡してい
た。

総統の病

1942年12月12日
ヒムラーはひどく神経質になっていた。
先生は、頭痛とかめまいも治せますか?
出来ると思います。
その人の名を申上げましょう。誓ってください他言はしないと!

彼は一つのファイルを取ってくると手渡した。
お読み下さい。これは総統の病気に関する極秘文書です。

26ページからなる報告書で、ヒットラーは若い頃に梅毒にかかり、1942年になってさらに症状が出ていた。つまり
進行性梅毒症に罹っている事は明らかだった。

ケルステン師は言った。
残念ながらこういった病気を私はどうすることも出来ません。
ヒムラーはその書類を黒い金庫に戻し、鍵を回した。
ゆっくりとそこを出て、ブラントの部屋にゆき、青い紙に書かれた、26ページの極秘の書類を知っているかと尋ねた。

真っ青になって特別秘書官は叫んだ。
なんですって!

長官がそれを先生にお話になったのですか?先生にとってそれは大変危険なことです。其の最高国家機密はヒムラ
ーの他はボルマンしかその書類を読めないのです。

12月19日ヒムラーの方から再び話を持ち出した。
この一週間の間に、先生は治療法を考えてきてくれたかと聞いてきた。
ケルステン師はヒットラーをむしばんでいる効く薬のない病気の症状を一つずつ指摘した。
数百万の運命を左右する決定が、実はいまわしい精神病患者によってなされているのに、まるであなたは、それが
正常な頭脳によってなされたかの様に絶対視している。この計画は狂気の時に、また此の計画は狂気の結果だと、
一体だれに区別できよう?

ケルステン師は自分の大胆さに驚きながらもあけすけに言った。

私もそう言ったことはみな考えました。
理論的には先生のおっしゃるとおりでしょう。
しかし、この場合、理論は通用しないのです。急な坂道で、ウマをかえるわけにはいかないんです。

ヨーロッパは餓えていた。ドイツによる闇市場買い占め作戦によるものだった。
1943年1月になって、ケルステン師にチャンスがやってきた。ヒムラーの症状がまた悪化したのだった。

長官の苦しみは交感神経から来るものです。考えてください。フランスの子供が餓えから来る胃痙攣でもだえている
のを見ている母親の気持ちを!
私があなたにして差し上げている事を!フランス人を餓えから救えば、歴史は長官ハインリッヒ・ヒムラーについて語
り、偉大なドイツの指導者の寛大さを褒めそやすでしょう。

私の魔術師であるケルステン先生。総統に会いましょう。そしてなにがなんでも納得させましょう。
ヒムラーは約束を守り、フランスだけでなく彼らが支配するヨーロッパ全体に買い占めの中止が行き渡ったのだった。

5月18日ブラントから電話が入った。
すぐに車でベルリンにいらしてください。ミュンヘン行きの飛行機が待機させてありますので。
長官がひどく悪いので。

1944年7月20日
治療が始まると、ヒムラーは自分から言った。
私は先生のおっしゃることが正しいと思います。どれもこれも絶滅してしまっていいわけはありません。
ゲルマン民族に対しては寛大であるべきです。
長官!やはりあなたは素晴しい指導者です!!
ケルステン師は、オランダ人、ノルウェー人、デンマーク人が市の収容所から離れて行く様を思い浮かべていた。
明るい見通しを祝うために司令部の会食所でたっぷりと食事を取り、暑さもあって昼寝をしていた。
ヒムラーの運転手であるSS隊員によって、気が狂ったようにわめき散らされて目が覚めた。

お起きになって下さい!先生!恐ろしい陰謀なのです。しかし、総統はご無事でした!

急ぎヒムラーの部屋に出向くと
何が起こったのですか?
ヒムラーは口早にしゃべった。
総統司令部で、総統を暗殺しようとしたものがいるんです。・・・・・
爆弾で・・・・・

私は二千人の将校を逮捕するように命じられました。

ケルステン師は10日間を自宅で過ごした。

8月1日の朝早く、電話がありベルリン駅から長官の専用列車で東プロシアに立つよう懇願された。
食事がすみ、家族にキスして車に向かったとき、軍のオートバイが一台来て、飛び降りると一通の手紙を差し出しな
がらこういった。
シェーレンベルグ大佐からです。至急便です。
ケルステンはこうした時いつもするように兵隊をもてなし休ませるために、調理場に行かせた。
文面を見て唖然となった。
カテンブルンナーがヒムラーの心を知りながら、先生を暗殺しようとしていますので、
いつもと違った道を行って下さい。
十分注意して下さいともあった。
ケルステン師は車に乗り、いつもと違う道を選ばせた。途中何の事故もなく専用列車に乗り込むことが出来たのだっ
た。手紙を見せられたヒムラーが怒ったのは言うまでもない。
ケルステン師は自分に降りかかった危険ゆえに、不幸な人々が身近に感じられたのだった。

 2700人のユダヤ人を無事スイスに逃がすことに成功したりと、多くの人やフィンランドやオランダフランスを救った
ケルステン師は1945年3月12日ついに八十万の囚人の命を救ったのだった。
ケルステン師とブラント立ち会いの下で、ヒムラーは自らの手で一通の文書を書き上げた。
”人類愛の名における契約”
1,強制収容所は爆発しない。(ドイツが負けるときは全部道連れと言っていた)   
2,連合軍接近の時は、そこに白旗を掲げる。                       
3,今後、ひとりたりとユダヤ人囚人を処刑せず、かれらを他の囚人達と同様に扱う。
この契約書には、まずヒムラーが、それからケルステン師が名を記した。
その二日後
ヒムラーの治療を続けていたケルステン師はもう一つの集団虐殺を未然に防いだ。

3月14日。
ハーグについての、先生のおっしゃることは正しいと思います。とにかくあそこはゲルマンの町に違い有りません。破
壊は取りやめ、白旗を掲げて連合軍に引き渡すことにしましょう。ヒットラーのこうした命令を無視できるくらいの権力
は有るんですから。
こうして40万人が救われたのだった。

1945年3月22日
ケルステン師はストックホルムに到着した。外務大臣にヒムラーとの取り決めを説明したのだった。
ノルウェー駐在のドイツ軍は降伏するだろう。強制収容所は爆破されないで、連合軍接近の際は、標識として白旗を
掲げる。
大したことですと、何度も聞き返した大臣はつぶやいた。
それだけではありません。

世界ユダヤ人会議の使節をドイツに連れてゆき、ヒムラーに会わせる事についての、
彼からの白紙委任状をもらってきたんです。
なんですって。幾ら奇跡の先生でもできっこありません。

いずれ、おわかりになります。

 4月19日と日取りが決まった。出発のその日になって、ユダヤ人会議のヒレル・シュトルヒは数時間前になって拒
否してきた。だがスウェーデンの市民権を持つユダヤ教徒のノルベルト・マツールが代表として同行することになっ
た。
無言ふたりの飛行機を降りると自宅に戻ることが出来た。

玄関の前で車の止まる音がした。ケルステン師はその方向に駆けだしていた。
ヒムラーが車から降りてきた。ブラントとシューレンベルグの二人を家に入れて、ヒムラーだけを外に引き留めた。彼
に心の準備をさせるためだった。
よくおいで下さいました。
世界中はこれまで第三帝国の政治犯にたいする処置に憤慨してきましたが、これからあなたがなさる会議こそ、
もはやドイツは変わり、ふたたび人間性を取り戻しつつある、ということを世界に示す最後の機会になるからです。


収容所で犯罪が行われたことは否定なさいませんね。
ええ、認めましょう。時として行き過ぎというこもありましたからね。とヒムラーは愛想よく答えた。

ケルステン師が遮っていった。
我々がここに集まったのは、なにも過ぎ去ったことを論じるためではありません。真の目的は、これから救える者につ
いて話し合うことにあるんです。
いくらかの躊躇や自己保存からの拒否があったが、最後に長官はマツールの前で世界ユダヤ人会議の名におい
て、マツールが要求してきた契約事項を承諾した。
1945年4月21日午前6時近かった。明るくなりつつあるそのときケルステン師はヒムラーを送り出した。
車のそばまで来っとき

私はあとどのくらい生きていられるかわかりませんが、たとえどんなことが起ころうと、
どうか私を悪く思わないで下さい。確かに私は、大変なまちがいを犯したかも知れません。でもこれは、
ヒットラーが私に冷酷という道を歩くよう強いたからなんです。
軍旗を守らないとか、服従しないということは、まったく考えられないことでした。
われわれとともに、ドイツ最高のものは消え去るでしょう。

車に乗り込むとケルステン師の手をぎゅっとにぎりしめた。

ケルステン先生ほんとうにありがとうございました。
いろいろと・・・・・どうか私を哀れんで下さい・・・・私はいま自分の不幸な家族のことをおもっています。
と涙をひからせた。

しばらくしてブラントと最後の昼食をとった。
ブラントは言った。
長官の約束は全て守られるよう手配すると。
そして、エリザべート・ルーベとマツールの通行証を渡した。

ケルステン師は一息つくと、唯一の武器であった、手のひらと指を突き出た腹の上に持っていった。
眠りに沈んで行く一人の太った男でしかなかった。
1959年 ヴェルサイユにて



追記
ヒムラーからブラントへの署名委託は、ブラントの正規の権限のひとつに数えられていた。
彼の裁判に際し、このことがかれにとり宿命的重要性を持つことになった。
ヒムラーは自殺により連合軍の裁判をのがれたが、ブラントは長官の命により、彼が訂正し、伝達し、
しばしば花押を書いた、恐ろしい計画全ての共犯を問われ、逮捕された。

ケルステン師はこのブラント弁護に全力を傾けた。かれは調査委員会で、自分が人名を救い得たその裏には、
ブラントの常に変わらぬ、大きな助力があったからだと証言した。
さらに医師は、トルーマン大統領に嘆願書を書きさえした。が、こうした努力はすべてむだにおわった。

ブラントは絞首刑に処された。

あとがき
1960年5月ジョゼフ・ケッセルがこれを出版したが、それを見る前の4月16日ケルステン師は心臓麻痺で死んだ。


三戒堂後書き
入手困難な長編歴史事実小説「奇跡の指を持つ男」の抜粋を小生意気にも掲載しました。
整体を求める人、学ぶ人、全ての人に送ります。
心と身体の整体を。
それは芸術でもあるのです。
それは人間再確認の技でもあるのです。
心を癒やし回復させる一枚の絵画と同じです。
2006年7月2日札幌にて
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